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8/02/2009

中国ブランド構築の難しさ ~景徳鎮はなぜ衰退したのか

中国ブランド構築の難しさ ~景徳鎮はなぜ衰退したのか


凋落著しい景徳鎮

 景徳鎮という地名はほとんどの人が聞いたことがあるだろう。
 
私は焼き物に凝るというほどではないが、見るのは結構好きで、大阪市東洋陶磁美術館の安宅コレクションに収蔵されている明代の景徳鎮の作品などを日本でも見ていたので、ぜひ景徳鎮に行ってみたいと思い、数年前のことになるが、行ってきた。

 しかし現代の景徳鎮はさびれた町だった。確かに今でも陶磁器の町ではあるのだが、道端で売られているのは日常使いの安物ばかりで、観光客向けに派手な昔の名品の彷古品(複製品)が土産物として売られている。だいたい観光客が極めて少ない。一部の若手作家が自分の窯を構え、芸術的要素の強い作品を作ってはいるが、あまり市場性があるとは思えなかった。中国国内の新聞でも近年の景徳鎮の凋落ぶりは話題になっており、「中国磁都」の称号を他の町に譲るべきはでないか、などと書き立てられている。

 せっかく世界中の人々に知られている「景徳鎮」(Jingdezhen, Chingtechen, Kingtehchenなどさまざまな表記がある)というブランドがあるのに、現在の体たらくはあまりにもったいない。
 どうしてこうなってしまったのだろうか。

 景徳鎮は中国江西省の北東部にあって、2000年以上前の漢代から陶磁器の生産が始まっていたとされる。後には一貫して宮廷御用達の器を焼く「官窯」が置かれた。宋代には青磁、白磁を産み出し、元代にはいわゆる「白底青花」(白地に青で花鳥風月が描かれた繊細な磁器は誰でも見たことがあると思う)と呼ばれる高品質の染付磁器を産出し、宮廷でも用いられただけでなく、欧州やイスラム圏など海外にも輸出された。清朝の雍正、乾隆期(1723~1795)が最盛期とされ、その後、徐々に衰退の道をたどった。

 一時は欧州の王侯貴族を魅了し、「China」(磁器)の代名詞にもなった景徳鎮が、平凡な一地方都市になってしまったのはなぜなのか。そう思っていろいろ調べてみたら、この問題には優れた研究がたくさんあり、衰退には理由があることがわかった。そして、その理由は一景徳鎮だけに留まらず、中国の製造業が現在でも抱えている問題点と共通性があり、中国経済の今後を考える上でも大きな示唆を与えてくれる。
今回はそのことをお話ししたい。

景徳鎮のライバル有田

 景徳鎮の成長と衰退を考える際に、日本を代表する陶磁器の町であり、かつては景徳鎮に学んで成長してきた有田と比較しつつ話をすると、よりわかりやすい。

 有田はご承知のように、日本で最も歴史ある磁器の産地で、江戸時代前期の16世紀後半から生産が始まっていたとされる。江戸時代後期に全国各地で磁器生産が始まるまで、日本で唯一、長期間にわたって磁器の生産が続けられていた。有田焼は「伊万里」とも呼ばれるが、これは製品の積み出しが伊万里港から行われていたことによる。

 有田での磁器生産の始まりは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、肥前国鍋島藩主が連れ帰った陶工のひとりが1616年に有田で白磁鉱を発見し、窯を開いたことによるとされている。その後、1640年代には景徳鎮の職人から技術を学び、色絵磁器が生産されるようになる。明から清への移行期の戦乱や清朝の海禁令(一種の鎖国政策、1656年)などで景徳鎮の輸出が減少したことをきっかけに、その品質の高さが注目され、オランダ東インド会社などの手によって欧州への輸出が急増した。18世紀後半以降は日本国内向けが中心になるが、明治以降は輸出が再び盛んになり、欧州での評判は中国製磁器を圧倒した。

 現在に至るまで「有田」「伊万里」が日本を代表する陶磁器ブランドして認知されているのはご承知の通りである。毎年4~5月のゴールデンウイークに行われる有田陶器市は今年で106年目になる。毎年数十万人の買い物客が押し寄せる世界最大級の陶器市としてますます賑わっている。
 
筆者の上海の自宅には、「白底青花」でセンスのよい中国モチーフをあしらった、有田の窯元「深川製磁」製のコーヒーカップがあって、お客が来るとそれを使ってコーヒーを出す。家人がデザインがらみの仕事をしている関係で、当家には中国人画家やデザイナーなどのお客が多いのだが、このカップを見ると、例外なく「へぇ、中国にもおしゃれな磁器があるんだね。どこで買ったの?」と感心される。しかし、日本製であると知ると、残念そうではあるが、「そうか、やっぱり」という顔をする。
なぜ有田が成長したのか

 有田の成長の要因は、地域を挙げての「粗製濫造」防止に対する取り組み、言い換えれば「有田」という地域そのものをブランド化するための努力にあったことが、これまでの研究で明らかになっている。まちづくりプランナーで、有田の歴史研究にも取り組む山辺眞一さんの手による「有田の陶磁器製造業から新たな展開――事例研究・地方産業の形成」(1995年)によれば、有田では以下のような取り組みが行われてきた。  ※(  )内はその狙い、目的

 1866年 陶業盟約(協同組合)の結成 (職工子弟の共同教育、商標保護、競争乱売の防止) 1867年 巴里万国博覧会への出品 (海外でのブランドイメージの構築) 1871年 日本初の陶磁器技術者養成学校「勉脩学舎」(現有田工業高校)設立 (人材育成) 1879年 九州初の企業法人「香蘭社」の設立 (陶工・絵付師・陶商の結社) 1888年 有田貯蔵銀行(現佐賀銀行)設立 (設備投資資金の融資) 1896年 有田品評会(現在の有田陶器市)開催 (商品の品質向上を競う)

 このように、まだ江戸幕府の時代、すでに陶工子弟の共同教育や「有田(伊万里)」という商標の保護、乱売の防止などといったブランド育成策を掲げて地域が取り組みを始めていたことがわかる。パリ万国博覧会に出展したのも明治維新前である。1871年の「勉脩学舎」(現有田工業高校)の設立は、その資金を地元有志の寄付でまかなったという。今日まで100年以上も続いている「有田陶器市」の原点は品質向上を競い合う品評会であった。こうした「ヒト・モノ・カネ」すべての面にわたる地域を挙げた取り組みが、今日に至る有田の歴史を支えてきたのである。

外地人の集合体だった景徳鎮

 一方で景徳鎮のほうはどうだったのだろうか。景徳鎮の成長と衰退の事情は早稲田大学政治経済学術院、経済学博士、四方田雅史氏の研究論文「太平洋経済圏とアジアの経済発展――-戦前期における日本・東アジア間の共時的構造と制度的差異に着目して」に詳しい。この論文で同氏は「近代に入ると、世界市場における景徳鎮の重要度は総じて低下した。日本の産地にとっても、海外市場における競争相手はもはや中国ではなく、イギリスやドイツに移っていた」と述べる。そのうえで、景徳鎮における生産の際立った特徴として、この町が地元住民でなく出稼ぎ職人によって支えられていたことを指摘している。

 この指摘は極めて興味深い。同氏の研究によれば、清の康熙帝の時代(在位1661~1722年)から200年以上にわたり、景徳鎮で仕事をする職工のほとんどが外地からの出稼ぎ者で占められていたという。職工たちは景徳鎮に定住しているわけではないので、川の水かさが減って製品の水運に適さない季節になると故郷に帰ってしまう。
 そのため景徳鎮の工場は「租厰制」と呼ばれる標準貸し工場を職工が利用するシステムになっており、職人の自前の工場ではなかった。工場のオーナーにしてみれば、職人はいついなくなってしまうかわからないから、その職人独自の設備や仕様を取り入れて工場を改造することはリスクを伴うので、やりたがらない。そのため職工は誰もが同じような設備を持つ標準工場を使わざるを得ず、技術の画一化、陳腐化が発生しやすく、技術革新が進みにくかった。

 また職人にしてみると、自分の個性に合わせた工場のシステムを構築することができないので、製品の品質はいきおい職人個人の技能に依存せざるを得なくなる。そのため職人の腕は確かだが、システム化されにくく、技能の伝承がしにくいという弊害があった。

 加えて大きかったのが職工同士の地域対立である。四方田氏の研究によれば、景徳鎮の職工は製造する磁器の種類によって出身地が異なっており、しばしば対立が起きた。1926年には「景徳鎮の楽平籍と都昌籍の(職工たちによる)大械鬥があり、両県人民がお互いに仇討ちで殺し合い、数ヶ月続き、(中略)景徳鎮では空前の大惨事になった」(江思清著『景徳鎭瓷業史』中華書局、1936年)といった状況だったという。

 このような状況では、有田の人々が実践したような地域全体の利益を考えた行動などは、景徳鎮では望むべくもなかったと言っていいだろう。


「定着」の有田、「流動」の景徳鎮

 近代以降の有田と景徳鎮で最も違ったのは何か。それは有田では江戸時代の末期から地元の人々が「粗製濫造の防止」に力を合わせ、技能の向上と蓄積、地域ブランドの構築に取り組んだのに対し、景徳鎮では磁器製造に携わっていたのは外地人であったため、「地域ブランド」という考え方が普及せず、技術力が蓄積していきにくかったという点である。つきつめて言えば、有田の人々はその土地に「固定」していたのに対し、景徳鎮で磁器生産に従事する人々は「流動」が前提だったということになるだろう。その違いが技術力の蓄積の差となって表れ、地域ブランドの価値に反映した。

 興味深いのは、こうした景徳鎮のような「地元民は貸し工場などを立てて外地の人々に貸し、自分自身はその産業に従事しない」という形態は、現在の中国でもごく普通に見られる形であるということだ。また出身地域間で従業員の対立や集団抗争などが発生するのは、現在の中国の工場でもしばしば見られる現象である。

 今年5月、筆者は広東省の東莞市に行ってきた。東莞のような農村から急激に工業化したような地域では、現在では工場が林立している土地は、大半がもともとは農地だった。中国の農地は農民の集団に所有権がある。仕組みをごく簡略化して言えば農民は土地を進出してくる工場に貸すか、もしくは自分たちで公司を作って貸し工場を建て、そこにテナントを入れるなどの形で「大家さん」になっている。こうした形態は工場進出が進んだ地域ではごく普通にあることである。いま東莞の「農民」は自分たちが建てた出稼ぎ者向けのアパートで、不景気で仕事がなくなった入居者が帰郷してしまい、家賃収入が入らずに困っている。

 また多少形態は違うが、例えば上海から近い江蘇省や浙江省などの農村に行けば、地元の農民はもはや自分で農業はやっていない。何をしているかといえば、農地はより貧しい安徽省や江西省などから来た外地の出稼ぎ農民に耕させ、自分はもっと賃金の高い工場で働くとか、別の商売をするなどして、より効率よく、楽に収入を得ている。

 こうしたやり方自体、もちろん悪いことではないが、自分で体を動かして生業に取り組むのではなく、自分の資産を他人に貸すことによって収入を得ようとする傾向は中国社会には非常に強い。つまり言葉を変えれば、工夫の積み重ねで生産性を上げ、技術を蓄積して高収益を目指すという「製造業(industry)型」より、資産を貸す、運用する、回転させることによって収益を上げる「取引(trade)型」の性向がより顕著だと言っていいだろう。景徳鎮の来歴を見る限り、どうもこうした傾向は清朝の時代から本質的には変わっていないように思われる。


景徳鎮、有田、そしてマイセン

 そしてもうひとつ考えておかなければならないことは、有田と世界の関係である。上述したような有田の人々の努力はあったものの、現時点で陶磁器のトップブランドとして広く世界の人々に認知されているのは、残念ながら欧州系のブランドが多い。

 例えば、ドイツにマイセンという窯元がある。「西洋白磁の頂点」とも称されるマイセンは1705年、ドイツのザクセン候アウグストス強王が錬金術師ベドガーに磁器の制作を厳命したことに始まる。当時、ヨーロッパでは中国や日本の磁器が上流社会にもてはやされていたが、純白で薄く、硬くて艶やかな硬質の磁器はヨーロッパでは生産する技術がなかった。そのため列国の王侯貴族、事業家たちはやっきになってその製法を見つけようとしていたという。

 ベドガーによる4年間の研究の末、1709年、ドレスデンで欧州初の硬質磁器が誕生した。中国風の染付が完成したのは1717年とされる。この後、ベドガーは製法の秘密漏洩を恐れた国王によって城内に軟禁されたまま37歳で生涯を終えるという悲惨な運命をたどるのだが、ともかくそのくらい欧州と中国や日本の技術差は大きく、欧州はなんとか追いつこうと必死だったのである。

 しかし、現在、一般に売られているカップ&ソーサーの値段を比べてみれば、マイセン数万円、有田数千円、景徳鎮数百円――といった感じだろう。もちろんそれぞれ普及品かから高級品まであるから一概には言えないが、この3者の中ではマイセンが世界各地で圧倒的な高価格で売られていることは間違いない。

 技術の蓄積とブランド構築ができずに衰退し、低価格品に甘んじている景徳鎮。懸命の努力で品質は世界トップレベルだが、ブランド力では欧州に及ばない有田。最後発ながらブランド力をいかんなく発揮し、品質、価格とも世界のトップを行くマイセン。単純化しすぎと言われるかもしれないが、何やら世界経済の縮図を見ているようである。

中国人も相当頑張らないと……
 
筆者が現在、講義を担当している大学院の授業には中国を中心にアジア諸国からの留学生が大勢いる。学生たちにはいつもこう言っている。「欧米と競争するのはかくも大変である。日本もずいぶん頑張っているが、あのトヨタですら、ブランド力ではドイツ企業にまだまだ及ばない。中国の若い人も相当に性根を据えて頑張らないと、とても太刀打ちできる相手ではないよ」――。

 まあ冗談半分ではあるのだが、結構真剣に聞いているので、希望はあるかもしれない。しかしながら、前回および前々回の長期雇用に関する記事でも書いたように、中国企業、特に製造業にいま最も必要なのは、長い視野の取り組みで技術力を向上させ、企業内に組織能力を蓄積していくことである。しかし景徳鎮の事例を見る限り、その道はなかなか険しいものであろうと判断せざるをえない。それはまた同時に、中国進出日系企業の最大の課題でもある。

 中国発のグローバルブランド構築は、なかなか長い道のりになりそうだ。


(2009年8月3日公開)